はじめに
この私はいったい何者なのだろう。固く閉ざされた自分の内側に、凝り固まっている魂。
限られた命を輝かせることもなく過ぎていく毎日。答えを求めて歩み出した道のりは、決して、平坦な一本道ではなかった。後戻りと出直し、彷徨と膠着の日々・・・・。それでも、探求の足は休むことを欲しない。命の原点へ回帰することの喜びを、本当的に感じ取っているからだ。

オステオパシーの源流
オステオパシー。かつて、医師としての第一歩をアメリカの病院で始めた私にとって、馴染み深く、懐かしい言葉でもある。現代のオステオパシーの医師(DO)に抱いている私のイメージは、一般の西洋医学の医師(MD)とほとんど変わらない。「ついでに整体もできる医者」、とうのが一番近い。今回私が体験した craniosacral biodynamics(以下CSBD)
の施術はストレッチや指圧など、関節や筋肉に物理的に力を加えるものと、まずは予想していた。だが、どうも違うらしい。現在の形にオステオパシーが発展していく過程で、そぎ落とされてしまった部分、それがCSBDだということを聞いた。では、それがいったいどういうものか。疑問、好奇心、恐怖の入り混じった複雑な気持ちで、ベッドの上に横たわった。

ピンポイントの熱さ
仰向けで寝ている。頸の後ろ一転が温かい。そしてだんだん熱くなってくる。そこの術者の指が一本、たぶん触れられているのだろうと、推測する。同時に、なぜ、暑さを感じているのかと、分析もし始める。押されているというよりも、たぶん触れられているというくらいの力。最初は心地よい暖かさ、次第に痛いような熱さだ。温覚・痛覚が確かに優位に機能している。次に、後頭部の左右の2点に全く同じような現象が起きる。たぶん、そこに術者の両手の指が移動したと推測した。

居心地の悪い両腕
頸の左右に感じている熱さは、気が付くと、両腕の置場のない不快さに取って替わられている。まるで、ムズムズ脚症候群の症状のように、腕がじっとしていられない。落ち着かない。居心地の良い腕の置場所を探すという、これまでに経験したことのない作業に夢中になるが、解決が着かない。「腕の上に組んでみたらいかが」という白石氏のアドバイスが入る。そのようにすると、すっと落ち着いた。なぜ、最善の解決法が分かったのだろうか。

こわばりの苦しさ
白石氏の両手のひらが、両頸の左右で、顔の下、3分の一を挟むような位置に移動した。軽く、触れているような、ギリギリ離れているような感覚で、セラピストの手のひらに顔が挟まれている。「窮屈」という言葉がピッタリと当てはまる不快感。そして、間もなく、まるで、下顎に指をかけて、顔を前方へ引っ張りだされているような感じ、(あるいは、仰向けなので頭部だけが空中に持ち上げられているような感覚)になる。すぐに、首の後ろが張って苦しくなる。それにしてもおかしい。こんな重たい頭が、触れているか、いないかのような手の力で、ここまで引き上げられるわけがない。きっと自分で勝手に緊張して頭を持ち上げている、否、持ち上げようとして筋肉だけ緊張させているに違いない。苦しさから、いろいろな理屈を考え、納得しようとする。すぐに、胸の上で組んでいる腕のポジショニングが再び落ち着かなくなる。手を組んだまま、両手を伸ばし、手のひらを外側に向けて(肘肩内旋、手背屈)思いっきり伸びをするような恰好をする。仰向けでこの状態を保つと、自分の頭の向こう側に座っている施術者に邪魔になるとはわかるのだが、許可を得て、変な恰好とわかっていながら、何とか苦しみを和らげるために続けざるを得ない。この時、息をこらえて止めてしまっている。更に、今回は両足もソワソワし、じっとしていられなくなっている。まさにムズムズ脚症候群のように。いまや、頸、と四肢といった、胴体とつながる主要部分がすべて緊張して痛いか、じっとしていられない不快さに襲われているわけだ。苦しみがどんどん増し、顔に左右にある術者の両手が恨めしくなってくる。これだけのことで、なぜこんな四肢と頸部にわたる苦痛を引き起こせるのか。
物理的な力ではないパワーが働いているのは明らかだ。だんだん、この施術は何のためにやっているのかという疑問が大きくなってくる。そろそろギブアップしようか、と思っているところへ救いの声が入った。「枕をいれてみましょう」

中休み
枕が入る。後頭部筋肉痛の痛みのポイントに、今度は、指による物理的な圧迫を主とする施術を受ける。かなりの長時間じっと指がポイントをはずさないように位置取りしながら押さえ続ける。思いっきり強く抑えるといことはない、やや強めから軽めの強さで調整される。次第に凝りがほぐれ、痛みが落ち着く。これを単純に指圧と言って良いものかどうかわからない。

命の原点への回帰
今度は、顔の左右に先ほどと同じように、白石氏の両手のひらが移動してきた。ただし、
先ほどのように顎の横ではなく、もう少し顔の中央、頬骨の左右のあたりの高さになっているように感じる。まくらが入っている点も先ほどとは違っている。ただし、前と同じように、軽く、触れているような、ギリギリ離れいるような感覚で、顔が挟まれていることは変わらない。このまま、少し時間が経つ。今回は、全く窮屈という感じがない。むしろ、すっかり、頸の凝りが取れていることに気が付く。そして、無意識のうちに、腕が完全に脱力し、左側などは、だらっと肘から先がベッドから半分落ちかけた状態になった。だが、今回はそのままにしておきたい。その位置で心地よく、あえてベッドの上に動かして戻したいという気にならない。さらに、知らないうちに、だんだん呼吸が深くなっていることに気付く。自分の意志とは関係なく、別の何かによって、自動的に呼吸をさせられているように感じる。楽だ。思いっきり吸える。いつもなら吸い終わって胸がいっぱいになる位置から、更にどんどんと、波が押し寄せるかのように、自然に空気が入ってくる。体が膨らむ。そしえ、スーッと吐けるのが嬉しい。これも楽だ。吸った分を思いっきり吐き切れる。波が引いていくかのようだ。自分の意志でしていることではないのだから、努力は全く要らない。これまでに味わったことのない感覚だ。思えば、自分は普段何と浅い息をしているのだろう。いろいろな呼吸法などを習って、稽古したこともあるが、常に努力して呼吸する苦しさから解放されることなどなかった。今は別の何かが自動的にしてくれている。いったいこの感覚は何だろう。ひょっとして、これは、眠っている時の呼吸と同じだ。
ただし、今、明らかに、自分は覚醒しており、眠ってはいない。呼吸が普段と全く違うことを、自分自身ではっきり自覚しているのだから、自然にほほ笑みが溢れてきてしまう。ニヤッと笑いが出てしまう。なぜだろうか。セラビストに変に思われないだろうか、分別を身に着け自然と離れて生きている大人となった自分の心が心配し、「笑うのはこらえよう」
、と考える。それでも、自然に、ほほ笑みが溢れてきてしまい、笑いがこらえきれない。今、私は、静かな、ただし確実に動的な、ゆったりとした波と一体化していることを感じている、生きている喜び-JOYがピッタリだ。自分の中にある自然に目覚めた。否、自分自身が自然そのものであることを体感しているのだ。

施術の後に
「起きたくなったら起きてください」といわれても、起きるのがもったいない。しばらくこのままでいたいという思いを胸に、失礼ながら寝たままで、白石氏と今回の体験について言葉を交わす、施術前、普段の浅い呼吸でかすれるような声で話していた私だったが、
今は、深い呼吸で、静かに、気持ちよく発声している。弛緩し、ベッドからも垂れ下がっていた胸を元に戻すと、尺骨神経にしびれが現れる。正座を長くした後の脚のように。ああ、こんなに長い間、腕をほったらかしにしていたのか、と気付く。それほど、楽だったおことを、再認識する。

おわりに
受験生時代に武道を始めた。医学生時代にアンドリュー・ワイルを読んだ。研修医時代に、オステオパシーの医者と働いた。あれから、多くの月日が流れ、医師としていろいろな経験を積んだ。そして、今回craniosacral biodynamicsのセラピストと出会い実際の施術を体験させていただいた。これら、すべての出会いや経験が、「私は自然である」という、当たり前の真実へ導いてくれようとしている。しかし、それを今回ほど深く実感できることはなかった。身体的、精神的に凝っている余計な緊張、知識、欲などが大きすぎる。一度の体験で、語れることには限りがあるだろう。ただ、その奥深さと、可能性の大きさについては、精神および身体の疾患の治療においては言うまでもなく、人の生き方の根本をも修正するような範疇までカバーするものであると言っても、まだ過小評価かもしれない。


日野病院精神科医師 I.K


以上、

 

 

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